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2013年12月

2013年12月31日 (火)

「永遠の0」はやるせない

「永遠の0」を見てきた。じわじわ泣けた。映画としての出来は悪くないし、なんといっても岡田准一だ。図書館戦争でも(映画としての出来はいまひとつだけど)いい味だしていた。全身で「切なさ」みたいなものを醸し出していた気がする。最後のシーンは特に。

 ただ、原作を読んだときほど充実感はなかった。ラストへ向かって情報が積み重なっていき、「落ち」が分かったときのなんともいえない気持ち、「読書ってだからやめられない」と思ったくらい。

 原作読んだ方がいいと思うけど、映画見た後だと、ラストが分かっててそこは残念かも。。

 ちなみに、山﨑貴監督のデビュー作は「ジュブナイル」というSF映画だ。

 監督の名前は「ALWAYS 三丁目の夕陽」で知った人も多いだろうし、「ジュブナイル」は映画としてはそれほどヒットしていない。次作の「リターナー」ももっとSFだけど、これはたぶん完全に転けたんじゃないかな。けっこう面白いんだけど。

 実は私の中での山﨑貴監督作品の映画のベストは「ジュブナイル」だ。「永遠の0」見たらどうかなと思ったけど、今も変わらない。ネットに広まった「ドラえもんの最終回」が元ネタだという。

 特撮(VFX)はけっこうちゃっちい感じあるし、主人公の少年が成長する物語でもあるけど、何かこう、見終わったときの青春感というか、ハートウォーム感というか、そんなのがたまらない。

 また見たくなった。

 「永遠の0」は、実はちょっと気持ちが重くなった。
 太平洋戦争で日本が負けて人が死んでいくという事実が描かれている分、ぽろぽろ泣ける映画でもなかった。すでにどうしようもできない過去の話という意味で、やるせない気持ちがした。ネット上で感想を少し検索したら、戦争をエンターテイメントとして描くなんてけしからんというような意味のことを書いていた人がいたけれど、それは違うんじゃないかな。

 ココログの以前のブログで以前書いた「ジュブナイル」

2013年12月30日 (月)

年賀状はオリジナルに限る

 昨日、ようやく仕事用年賀状を用意できた。あとは投函するだけ。

 最近はfacebookなどで充分という人も増えていると思うのだけれど、とりあえず今は「草生人」をなんとか知ってもらおうと思い、名刺をいただいた方(会社)には全員出すことにした。

 ちょっとギリギリで元旦に間に合わないとは思うけどすべての宛名を手書きで書いたから許してくださいm(__)m。


 しかし最近の筆ペンの書き味はすごいなあ。書き味は「かな用の小筆」にかなり近い。小筆の穂先には、毛が一本か二本ちょっと出ていて、それでものすごく細い線を出せるようになってたんだけれど、筆ペンでそれを再現しようとしているみたい。

 ただ、やっぱり筆「ペン」、ふつうのペンとかと同じように持つせいか、どうしても上手く書けない。

 さて、物心ついてからというと大げさだけれど、私はずっと年賀状はオリジナルだ。つまり、自分で干支に関係ある絵を描く。パソコンを使い始めてからはパソコンで。

 漫画家になりたかったっていうのもあって、変にこだわってた。市販の印刷サービスを使ったことは一度も無い。

 
 パソコンを使って描くまでは、1枚1枚描いていた。
 時間があるときは全員ちょっとづつ違う絵にしていたりしてやたら時間がかかった。何を描いていたのか、よく覚えていないんだが、寅年に虎模様の服を着た女の子を1枚1枚ポーズ変えて書いたことだけは何故かすごく覚えている。

 しかし年賀状って出しちゃうんだよね。手元に1枚も無いのが残念。

 パソコンで作るようになってからはそのデータが残るはずだが、一時期はPageMakerで作っていたし、パソコンも使い始めた当時から何台代替わりしたか分からない状況で、古いデータはもう見ることができない。

 そういえば以前ALPSというところのプリンタを使っていたことがあった。

 これ、金とか銀とかの色が使えたんだよね。液体のインクではなく、カーボン紙みたいなもの(マイクロドライインク)を使っていたから可能だった。すでに販売は終了してしまっているけれど。
 

 最近子供の写真を嫌がる人が多いって話も聞くけれど(結婚遅かったから、独身時代にもけっこうそういう年賀状来ていたけど、似てる〜とか、こいつも親になれたのか、とかそんな風にしか思わなかったんだよね私は)、写真屋さんでお願いしたような、1,2枚の写真をさっとならべたのではなく、それなりに加工して配置すればいいんじゃないかなっということで、子供が生まれてからはほぼ必ず子供の写真を使って作ってた。

 書道っぽい文字を使いたいというとき、今回の年賀状では「馬」の文字を半紙に書いて取り込んだけれど、数年前は、「Mac書道山水」という書道ソフトを使って書いていた。筆圧感知タブレットを使って書くと、けっこうなかなか書道っぽい文字が書けた。今のiPad用書道ツールよりもずっと凄かった。と書いていて、タブレット用筆圧感知ペンが出たって情報を最近見た気がすると思って検索。


 
 これ欲しいな。

 ということで、去年の年賀状のデザインを公開。文字はそのまま。住所はマズイのでベタ塗り。真ん中の蛇はたしかIllustratorで描いたと思う。他の■は全部InDesignで作成。「草加風景」の写真を適当に入れてある。

 自宅用には、草加風景の写真を、家族の写真に入れ替え。

 こちらはインクジェットプリンタで1枚1枚印刷しなくちゃならないから、時間かかりそうだなあ。年末までにはなんとかしなくちゃ。

 「草生人」の音楽特集号も、今紙面作成中。いろいろあって遅れてしまった。

 嘆いてばかりいても仕方が無いのでなんとかしなければ。。

2013_nenga_work

2013年12月28日 (土)

「女性蔑視」に見えなかったのは鈍感だから?

「人口知能学会誌が、掃除機を女性化したイラストを掲載」したことに対してネット上が騒がしい。

人工知能学会の表紙は女性蔑視?

で、そのイラストを見てみたが、お、掃除機の擬人化だなとしか思わなかった。

この違いは何だろう。
分析はこちらがものすごく丁寧だ。

人工知能学会誌の表紙を通して、批判と攻撃との差をみる

この手のことに対して私が「鈍感」である、ということもあるかもしれないけど、女性差別と思えなかった理由はたぶんシンプルで、私自身「女性として差別される」という経験がほとんどなかったからじゃないかと思う。
(鈍感であることの理由が、経験不足であるなら、同じ意味か)

もともと子供の頃から女の子っぽいことが嫌いで、物心ついたときに遊んでいたおもちゃはレゴだし、ゴジラなどの怪獣好きだったし、「学研の○年の科学」の付録ほぼすべて作っていた。
「ガンダム」「イデオン」なんかのアニメも好きだった。
働いてからも、職場である書店でも編集プロダクションでも、仕事上の男女の役割はほとんど変わらない。お茶くみや事務を「やらされた」経験もない。多少セクハラはあったにしろ(-_-)

まあそれは別の面からみると、ちやほやされることがなく、おごってもらったり荷物持ってもらったりという女扱いをほとんど受けていなかったというマイナス面の方が大きかった、かもしれないが(^_^;)

男女の差別、という部分では逆に、「女は気分屋だから」「女はムードを大切にするから」とか「女」とひとくくりに語られる方が時々気持ち悪い。それは気分屋の人間がいる、ムードを大切にする人間がいるというだけで「女全部」じゃないだろと。

「人工知能学会誌」の表紙がたとえば「執事」で紅茶など入れていたらどうなんだろう。

近い将来、人型(アンドロイドタイプ)のロボットが各家庭に入るとき、家事をするのであれば、クライアント(使う方)が望む外見になるわけで、多くの人が望みそうな形としてイラストを描くのがダメというのは神経質すぎると思うのはおかしいのだろうか。。

それに、もしこの家事アンドロイドがベビーシッターを兼ねているのなら、女性じゃなくちゃ難しいだろうなって思ったりする。

赤ちゃんをあやすイラストにしていたら問題はなかったとか?

アニメでは戦う美少女が大量に存在するんだけど、それってどう扱われているの?

いろいろ心配になっちゃうな。

2013年12月27日 (金)

「編集」って何の仕事?というお話

「草生人メールマガジンvol13」掲載の編集長コラムより転載


 今、次号の制作の真っ最中。
 だいたいインタビューは終わって、これからその内容を文字におこして記事にする段階。これが一番時間がかかる。
 インタビューはメモも取るが、基本的にはICレコーダーで録音する。
 ちなみになぜメモを取るか、というと、その場で重要と感じたことをその場で記録することも大事だと思うから。もうひとつ、録音を失敗したり、帰り道レコーダーを落とすとかの突発事故に備えて。まあ心配しすぎ(^_^;))
 
 さて、タイトルのことは、編集の仕事を始めてからずっと思っていること。

 「編集」って、マスコミ系職業の中では名前的には割と知られているし、職業としてもいいイメージを持たれている気もするけど、具体的に何をするか、ということになると意外とわからない人が多い(と思う)。

 「バクマン。」をご存じの方はマンガ雑誌の「編集」をそのまま当てはめてしまうかも知れないが、あれはそれほど一般的では無い(と思う)。

 さて、「草生人」の場合、企画、取材、執筆、写真撮影、誌面データ制作(含 デザイン・レイアウト)、校正、印刷所対応、ほぼ全部「編集部」でやってるので、人にも説明しやすい。「これほとんど1人でやってるの?凄いわねえ」という感じ。

 しかし、「編集仕事」を抜き出すと、「企画」「校正」「印刷所対応」くらいになる。人が具体的にイメージできる多くの部分が抜け落ちてしまうのだ。

 イラスト描くのも写真撮るのも原稿書くのもレイアウトやデータ作るのも印刷するのも全部違うんだよね、編集っていったい何してるの?

 いやいやそれをまとめて整理しているのが「編集」です。

 「草生人」で言えば、どういったタウン誌を作るのか、という本誌自体の大きな方向性から、各々の号で何を取り上げ、どういった形で記事にするか、ということを考えて形にすることが「企画」。

 そして、もし原稿などを他の人にお願いするとしたら、いつまでに何についてどれだけの分量をこなしてもらうのか、しっかり明確にしてお願いしなくちゃならない。お願いする人が増えたら、そのやりとりの作業だけで膨大になる。

 そして「編集」の最も大事な仕事、それは、全体のスケジュールを組み、ひとつひとつの作業の具合を見ながら調整していく「進行管理」。これも目には見えない。

 
 よく料理番組で、3分でできる簡単料理!とうたっているのを見かけるけれど、それ材料をお店で選んで買ってきて洗って皮剥いて適当な大きさに切っている時間、食器によそってテーブルに並べる時間(+食べ終わった後食器を洗ってる時間)を含んでないだろうっっと突っ込んでいるのだが、その手間の部分が要するに「編集」だなとイメージしてもらうと、わかりやすいかもしれない。

 
 さまざまなお仕事の人にインタビューしていると、短時間ではとうてい話しきれないこと、外からはわからない苦労がたくさんあるんだろうなって思うのだ。
 「編集」仕事と同じように。

2013年12月26日 (木)

行くも地獄戻るも地獄止まっても地獄

 頭痛を押してブログを書いて、さて、と「確認」ボタンをクリックしたら「エラー」。
 そうだった、しばらく時間がたつとログイン情報を求められるんだった。こうなると全部のテキストが飛んでしまう。入力ページでそれを何回かやらかしたので、最近はボタンクリックの前にテキストを保存しておくようにしていたんだけど、今日はぼーっとして忘れていた。

 こういうときは完全にうちのめされるな。何か書いたんだっけ。以下は思い出し書き。


 実は昨日の出来事で、今日は1日中頭痛で横になっていた。どうしても起きられなかった。

 とある知り合いから勧められた人に、今の状況を相談しに行ったら、ある意味地獄に落とされた。

 長い時間相談にのっていただいて感謝しています。どうもありがとう。あらためて自分の状況を認識することができました。
(上記の文章が、エラーの後再度書いたときに抜け落ちてしまった。すみません)

 相談で提示された内容は、一応うすうすは認識していることではあったので、地獄にいることを再認識させられたという方が正しいかもしれない。

 蜘蛛の糸は在るけれど、1本だけを登るのは不可能に近い。地獄から脱出するにはどうすればいいのか。

 私は自己満足型小心者編集者であり、経営者ではなかった。


 そういえば今日は年賀状ができあがってきた。本誌でも利用させてもらっている東京カラー印刷

 今回、一昨日データを昼頃アップロード後、昨日深夜2時近くに「データチェック完了」、早朝6時前に「完成日確定」、そして朝9時3分に「入金が確認できません」というメールが来た。ふつうデータチェック完了のメール確認してから入金するから、それ無理(^_^;)。きっと年末は24時間体制なんだろうな、ガンバレ。
 
 さて今話題の朝日新聞「ゼロ」書評。
 確かに最初読んだとき「なにコレ」と思った。中味のことが書いてない。だれかがツイッターで「読書感想文を誤魔化して書くときのテクニックそのもの」みたいなことを書いていたけれど、そんな感じ。

 一番納得できると思った「書評」の解説記事がこれ。


 私は堀江貴文氏のメルマガ『堀江貴文のブログでは言えない話』を一桁時代から読んでいるファンなのだ。著作も半分くらいは買っている。ただ、最近はちょっと読書時間が無くて「時事ネタオピニオン」くらいしか読んでないけど。有料メルマガがちゃんとしたビジネスモデルだと認識させたのはこのメルマガからだって思ってる。

 とりあえず再度書いたら疲れた。

 今日は眠ろう。お休みなさい。

2013年12月25日 (水)

クリスマスの儀式の終わり

 うちは今年からサンタが正式に来なくなった。

 正式っていうのも変だけれど、去年まではちゃんと娘達もほぼ全部承知しつつ、一番下の娘に合わせて欲しいものを書いたお手紙をポストに入れて待ち、親がクリスマスイブまでにそれをそろえて枕元に置く、という儀式をやっていた。

 しかし、去年改めて話した、というか、当日プレゼントについていろいろおしゃべりした。詳細忘れちゃったけど。

 今年は欲しいものを買ってあげる余裕が無く、娘達もそれをわかっているから、バイト代を足して買うとか、誕生日プレゼントといっしょにして買ってもらうとかという話になった。
 今年のクリスマスの朝に、枕元にプレゼントは無かった。


 なんか淋しいというか、侘びしいな。


 しかしいつごろからサンタクロースが来るのがふつうになったんだろう。

 少なくとも、私が小学生の頃(昭和40年代)には来ていなかった。当時その話を友達とした記憶がほとんどないので、「イブの夜にサンタクロースがプレゼントを持って枕元に置いていく」という儀式はそれほど一般的じゃなかったんだろう、と思った。
 しかし、娘の友達のお母さん、「ママ友」になるんだろうけれど、彼女たちの話では、サンタクロースは来ていた話の方が多い。私が割と高齢出産なので、10才くらい離れている場合が多い。となると、昭和50年代くらいから一般化したんだろうか。

 と思って検索してみた。
 「サンタクロース 日本 いつから」(今の子ども達にとっては普通のことだけれど、毎回知りたいことがすぐ調べられるインターネットと検索機能はホント凄いと思う)。

 なんと、団塊の世代、つまり私より10才ほど上の世代でもサンタクロースが来ていたらしい。

 元資料はわからなかったが、
【クリスマスの歴史 http://gazou.eek.jp/christmas/mame/7.shtml
には、「戦後昭和20年代には日本の子供の67%にクリスマスプレゼントが届けられていたというアンケート結果も出ており、 1960年代にはすでに、現代の日本で見られるクリスマスの様相はで揃っていたそうです。」と書いてある。

 おおおお?

 私が生まれたときにはすでに子供達の元へサンタが来ていたことになる。
 となると………。

 実家ではクリスマスはサンタクロースではなく親からプレゼントをもらう日だった。 ツリーを飾ってケーキを食べる、というクリスマスのイベントは行っていたけれど、サンタは来ていなかった。

 「サンタクロースが来る」というストーリーをちゃんと楽しむため(楽しませる)にはそれなりの努力(欲しいプレゼントを聞き出し、その品物をなんとか確保し、夜中に寝静まってから枕元に置く)が必要だ。
 でも実家は祖母が同居していた時期も長かったし、父親は海外の場合が多かったので(外国航路の貨物船に乗っていた)、その儀式をするのは難しかったんだろうな。

 ちょっとだけ、淋しくなってしまった。。

2013年12月23日 (月)

「思い出に耽る」時間を発見の時間に変えた(かもしれない)インターネット

 中学校の頃読んでいたマンガの詳しい年代を調べるためにWikipediaを見ていたら、当時読みふけっていた少女漫画の作家の名前が登場するたびにそのページを読むはめになり、時間がどんどん過ぎていった。

 youtubeもそうだ。ちょっと思い出の音楽が気になって調べて、目的の音楽があると、関連動画を次々と見てしまう。

 で、この時間、一昔前(インターネット以前)だと「わああまた無駄な時間を過ごしてしまった〜」と嘆く場合が多かった。
 昔のアルバム見て昔読んだ本やマンガ見て音楽を聞いても、頭の中を思い出が駆け巡るだけで、「過去の自分は凄かった!初心に戻ろう!」とかドラマ的な「気付き」があれば別だけど、たいていは「そんなことがあったなあ、そうだった、うん」と遠い目をして時間が過ぎる。

 しかし、インターネットは「関連情報や関連動画をどんどん見ちゃう」ので、つまり「思い出=過去」だけではなく、そこから新たな情報や知識に出会えることがある。そこから何かが始まることもある。

 まあいつもそうってわけじゃないし、無駄なことも多いけれど、ブログやコラムや、マンガや小説書いているひとは、昔よりもネタが拾いやすいだろうな、とは思う。

 ただ、そういう感じで次々と関連情報を見ている人は減っているんだろうか。「ネットサーフィン」って「死語」だよね。なんとなく今の時代は、若い人がネットやってるっていうと、SNSかゲームしか思い浮かばない。うーん。。

 タイトルはあくまでインターネットを黎明期から使っていた人の感想なのかなあ。

2013年12月22日 (日)

お詫び:冬号の発行を来年に延期します

「音楽特集」として今年中に出す予定だった「草生人冬号」の発行を、延期させてていただくことをお知らせいたします。
取材にご協力していただいた皆さまには、深くお詫びいたします。

音楽都市宣言20周年の今年に出さなければいつ出すんだ、という具合に企画して取材して制作中だった「草生人 2013年冬号」。
しかし、当初に考えたページ構成がどうも物足りず、いろいろ考えた末、構成を一部変更し、追加取材をいくつか行うことを決めた。

しかし、決めたのは12月に入ってかなりたってから。
もっと早くに決定していればなんとか間に合った可能性もあるけれど、でも年末年始の慌ただしい時期に追加取材をお願いするというのも憚られた。
なんとか追加の取材をせずに記事を埋め、今年中に出す、という選択肢もあったのだけれど、自分の中で納得できない内容のものを出すのは避けたかった。

実はもうひとつ、私の体調が11月から不安定で、制作自体が遅れていたこともある。
スタッフが少ないと、というか、原稿は複数のスタッフで担当しているものの、最終的なデータ作成は未だに編集長ひとり体制なので(^_^;)、ストレートに制作進行に響いてしまう。
外注すれば?という提案もあると思うけれど、今の体制は、編集長(私)が《レイアウトしつつ原稿修正しつつ原稿の長さに合わせて写真を調整しつつ制作》という形とっているので難しいのだ。

ごめんなさい。


というわけで、1月の発行となります。
申し訳ありませんが、よろしくお願いいたします。

地元ネットワークの中と外:知らないのは私だけ?

以下の文章は、「草生人メルマガ2012年10月25日発行3号」に掲載した文章。今もほとんど同じことをいろんな人に話している。
同じ事を考え続けて1年たってしまった。
でもまだ「草生人」は何もできていない。
戒めを込めて、再掲。

というのは建前で、メルマガの読者が少なくネタがもったいないので再利用させていただきます。ご容赦くださいm(__)m

 草加の町にあるお店やら人やらの取材を始めて約半年。今痛感していることがある。

 それは、「なぜ今までこんなことを知らなかったんだろう」

 取材をお願いする人は、草加で活動している人、というのが基本だ。喫茶店も、写真館も、ずっと草加で事業をされていたお店だ。

 で、何人もの人にお話を伺っていると、お店のご主人やその知り合い、お店を利用している人のネットワークがかなり重なることがわかってきた。取材時に前の号を見せると、「この人は常連さん」「PTA会長だったから知ってる」「商工会議所でいっしょだった」などという話がぽろぽろ出てくる。

 彼らは、町内会長経験者であったり、草加市○○実行委員会のメンバーだったりして、イベント会場でも出逢うことになる。そして、みんなで草加を盛り上げようといろいろな企画をたて、その実現のために頑張っているのが見えてくる。
 
 しかし、以前の私はそういった活動をまったく知らなかった。
 ご近所の神社のお祭りと市民祭りに行くくらいで、草加が音楽の町宣言していることも、おせんべ以外に特産品があることも、よく知らなかった。

 なぜだろう。

 理由として一番大きいのは、働く場所が草加以外だったことだろう。東京で働くサラリーマンだと、草加はいわゆるベッドタウンだ。土日の休みには、せっかくだからと遠出して、町の外へ出てしまう。映画を見たり買い物へ行ったり。

 また、マンションだと町内会には入らない人が多いのではないか。あくまで予測だけど、マンションは駅に近いところにあるのが基本、つまり商店街があるところなので、町内会はそういった人が入るところ的な感覚があると思う。PTAと同様、めんどくさい団体、のように思っている人も少なくないと思う。
 地元で仕事をし、地域の活動を担っている人、町内会や商工会議所・商店会などに所属して活動している人とその家族のグループ(「中」側)。

 東京など草加以外で仕事をしている、一般的なサラリーマンとその家族のグループ

(「中」の回りという意味での「外」側)。

 公務員や、仕事がお休みの日に地域の活動に積極的に参加している人など、この範疇に入らないグループはたくさんあると思うけれども、大きくふたつに分けられるのは確かだと思う。

 「草生人」を制作することで、「中」=「地元で活動しているグループ」に足を踏み出してみたら、そこは別の世界だった………というか、「地域のネットワーク」がパッと広がったという感じがした。

 つまり、そのネットワークは、中に入らないと見えない。

 以前、「草生人」を見た人から、「草生人は草加をよく知らない人が作っているように思う」という感想を聞いた。草加で暮らす人なら当然知っているはずのことがわかってない、それが記事の中に見えたのだろう。

 しかし、それは「中」の人の感覚なのではないか。中からは「みんなが知っている」と思えていることが、実は外の人にはうまく伝わっていないのでは。

 「草生人」が、中と外の橋渡しになれないだろうか。
………………
 と、何か大げさな話になってしまったけれど、「橋渡し」はあくまで私自身の印象に基づく希望であって、本当にそんなふうに別れているのかは不明。私の家族だけが例外で、他のサラリーマン家庭はみんな地元のことをよく知ってるかもしれない(なんてことは無いか)。

 ともかく「草加」をいろんな角度からとりあげて「外」の人に知らしめたい「草生人」なのでした(○○のわんこ風@めざまし)。

2013年12月20日 (金)

LINE使ってないんだけれど。

実はLINEを使っていない。

いや、実際には「LINEを使うような友人・知人が居ない」ということで、よく考えてみると淋しい状況ではある。けれど特にこれがマズイとか嫌だとか思っているわけじゃない。

多分、逆にグループ登録などしたら気になっちゃう方なので、このままの方がいい。mixiの足跡機能を無視していた私的には。

しかし、LINEは友人・知人同士のやりとりにとても便利そうだ。
娘たちはLINEでクラスや部活やサークルの人とおしゃべりと打ち合わせをしている。
すでに無くてはならないツールだ。
ずっと見ているのに気がついたときには注意する。ただ、昔はまった「チャット」と同じだとすると、その中毒性はわからなくもない。チャットで文字打つの早くなったもんなあ。

そういえばfacebookも基本的には実際に会う人々とのやりとりが基本だ。

個人情報をさらすことになるので、見ず知らずの他人が突然割り込むことは難しい。顔を知らない場合も、友達の友達とか、地域や会社の関係とか、現実社会での知り合い(もしくは知り合う可能性のある人)が「友達」になる。そして、お互いの情報を公開するモードになる。

その昔、ネットの黎明期の掲示板(BBS)やチャットでは匿名が基本で、趣味や考えやその他、共通の何かがある見知らぬ人々がコミュニケーションをとるものだった。そこには年代や肩書きなど関係無かった。オフ会で初めて会っても正体明かさない人もけっこう居たな。

オンラインゲームなどはそんな感じなんだろうか。

実はその手のゲームも一切やったことがないのでわからないけれど。

「ネット」は、いつの間に実際の知人友人とのやりとりがメインの場になったんだろう。

2013年12月18日 (水)

「ohana」と歴史民俗資料館

 昨日、歴史民俗資料館と、その前にオープンした「ohana」へ行ってきた。

 「ohana」の正式名称(というか事業名もくっつけると)は「草加駅前一番通り商店会 女性起業家支援事業 チャレンジショップ ohana」。以下の4つのお店からなる(ちらしの一部を転載)。

・「みんなのアトリエ」児童心理士しによる遊びと学びの創作教室
・「〜輝く笑顔が集まるサロン〜サロンドールohana店」予約制エステサロン
・「プラムツリー」手足の疲れ、足のムクミ、肩こり、腰痛に……足で行う新感覚の施術
・「まちの雑貨屋さん Moonlight」趣味でセレクトした雑貨とハンドメイドの作家さん達の作品が集まるお店

Ohana1 Ohana1_2

 4つの店が集まっているといっても、1つのスペースを分け合っていて、明確な仕切りはない。
 「女性起業家」という文字には、何かこう上昇志向というか強い語感があるけれど、みなさん親しみやすく落ち着いた雰囲気の方ばかりで、店内はホっとする空間になっている。

 「サロンドール」の安藤さんは、「草加元気放送局」の安藤さんであり、市のイベントではたびたび司会などを担当されているので、「あ、どこかで見た顔!」と思われる方も多いかもしれない(本店は西町にある「ノエビアビューティスタジオサロンドール」)。
 前面がガラス張りなので若干入りにくく感じてしまうが、こじんまりしていて居心地はいいので、ちょっと寄り道してみて欲しいと思う。

 その後、歴史民俗資料館へ。
 昨日は『「歴史民俗資料館30年のあゆみ」展』開催中だったが、訪ねたとき来訪者は私だけだった。
 なので、中島先生にマンツーマンで紹介してもらってお得な時間を過ごせた(ありがとうございました)。ただ、夕方用事があって、ゆっくり出来なかったのが残念。

 実は一番訪れたかったのが、昭和時代の小学校教室を再現したという「教育資料室」。
 昭和30年代ということで、私の小学生時代(昭和40年代)より少し前。だが、記憶の中の雰囲気はこれだ。木の机と椅子、アルマイトの食器。
 そういえば「アルマイトの食器に注がれた脱脂粉乳」の経験があるんだけど、いつ切り替わったんだろう※。

 なつかしい教材や教科書のほかに、市内の写真館から寄贈されたという昔のカメラや、蓄音機も展示されていた。
 日本製の唯一の蓄音機である「蓄音機 クマーベ試作4号機 日本製1932年」も見せていただいた。アナログレコードが置いてあった。うちにもアナログレコードがけっこうあるけれどプレーヤーが無いと話したら、ここへ持ってくれば、と中島先生は言ってくださった。が、ビートルズとかの洋楽であることを伝えると「クラシックじゃないの?」。

 教室には楽器も展示されていた。「ハーモニカ」を見かけて、そういえば私が小学生の時は全員買わされたなあと思い出した。地域によって差があるが、じわじわと「鍵盤ハーモニカ」に変わっていったらしい。鍵盤ハーモニカが教科書に登場したのは昭和46年だそうで、私は切り替わる前の世代になる。教室の「オルガン」も無くなったなあ。
 

 またじっくり見に行きたいな。

 
※脱脂粉乳
昭和33年には「学校給食用牛乳取り扱い要領」が通知され切り替わったとあるが、完全に切り替わったのはけっこう後らしい。私が小学校入学時は確かに脱脂粉乳だった記憶がある。中部地方へ転校した時点で変わったのかな?ちなみに中部地方の中学1年のときは給食があったが、神奈川県に引っ越したらお弁当になった。
参考のために検索して見つけたサイト。昭和40年代、ここにはコッペパンの例しか無いけれど、通っていた学校では「食パン3枚」ってのが標準だった。なんでもかんでもパンに挟んで食べた記憶が………。しかしこのサイト、毎日の給食献立が掲載されているけれど、場所が明記されていない。かなり気になる。

2013年12月16日 (月)

「50代女性のイメージ」はもしかして20年変わってない?

前回の記事が、12月15日号の「草生人メルマガ」の編集長コラムと一部話題がかぶっているので、宣伝がてら転載。


 昨日、TBSドラマ「安堂ロイド」が最終回を迎えた。個人的には かなりおもしろかった。いろんなSFのパクリっていう批評もあるけど、SFのアイデアなんてすでに出尽くしてるから、逆にどこから「インスパイア」されてるかを探したり、説明の足りない部分を脳内補完するのも楽しい。

 見ていない人のために補足すると、時間を超えて通信ができるゲートを発見した天才科学者が、発見したことで生まれてしまった悲惨な未来を避けようと、自分とうりふたつのアンドロイドを現代に差し向ける話(だと思う)。天才科学者と恋人の「思い」がキーとなっている(と思う)。

 登場人物はほとんどSF作家や科学者の名前のもじりになっているとか、引き出しからアンドロイドが登場するとか、セリフにSF小説のタイトルやエピソードが入ってるとか、そんな遊びがいっぱい。


 もともと、TBSドラマ「SPEC」劇場版「SPEC」)の西荻弓絵が脚本を担当、コンセプト・設定協力に「エヴァンゲリオン」の庵野秀明氏や前田真宏氏が参加、っていう時点でもう見る気満々だった。

 で、この話みんなどう思って見てたのかなと、とりあえずはツイッターで検索。
 するとだいたいが「面白かった!」「泣いた!」という感想。ツイートしている人のブログを見ても、多くは「好き」という人だった。

 しかし、ネットのドラマレビュー掲示板などを見ると、けなしている方が数倍多い。しかも「酷いドラマ」「キムタクみっともない」とかほとんど罵倒に近い発言もある。商業ネット系の記事でも「キムタクもうダメ」的な論調が多い。なぜこんなに差があるんだろう。
 キムタクに何か恨みでもあるのか?

 で、話は変わって本題。コラムタイトルは、「安堂ロイド」を取り上げているコラムで、「50代以上の人はついてこれないだろう」的な発言に対して思ったこと。

 50代っていうのは私の世代で、中学のときにマンガ、高校大学の時にアニメの洗礼を受けた年代のはず。 
 それに、「安堂ロイド」のテイストって、なんとなく「NHK少年ドラマシリーズ」の雰囲気をまとっている気がする。けっこう本格SFの(ちょっとチープな)ドラマというか、そんな感じ。50代って、「少年ドラマシリーズ」世代でもあるよね。
 そして、ウルトラマンや仮面ライダーなどの特撮も見ていた世代。

 つまり、今50代以下の親(の何割か)は、アニメやマンガやSF的なものにそれほど抵抗がなく、子供といっしょに楽しんでいる人も多いのではないかと思うのだ。

 なのに、一般的イメージの中の「おばさん」は未だに、「いい加減マンガとアニメは卒業しなさいっ、とどなっている」気がする。科学にうとく、SFにあまりなじみのない、パソコンとかが苦手な「おばさん」。
 これってうちの親のイメージなんだけど(今80才過ぎてる(^_^;))、いつまでこのイメージが続くんだろう。

 少なくともうちの場合、読むマンガ、見るアニメが親子で共通だったりするし、パソコンを教える方だし………私が変わってる?

 いやいや、こういったコラムを書いている人の年齢をちょっと考えてみよう。30才前後の人が多いとすると、彼らの親は60才前後。このあたりに「アニメ・マンガ」の洗礼を受けていない世代との境界線があるのかもしれない。TVが普及し、アニメが登場した頃子供だった、という世代と、それ以前の世代。

 私が小学校や中学校で読んでいたマンガは、今読んでも古典ではなく現役のマンガとして読める(と思う)し、映像作品はちょっときついけど、少なくともウルトラマンも仮面ライダーもちゃんと現役キャラとして残っている。

 たまに、萩尾望都の「ポーの一族」や「トーマの心臓」を中学校時代に読んでいたんだなあとか思うと、凄いな自分とか思ったりする。大人になってから思い出す「子供時代」って、なぜか「イメージの中の子供(子供っぽい子供)」になっていないだろうか。もしかして「おばさん」の概念も同じかな?

 今は、アニメもマンガもメディアのひとつとして普及しているので、私の子供たちの世代が親になる頃には、アニメとマンガを子供のモノって思っている人はいなくなっているだろう。


※特撮といえば、「安堂ロイド」設定協力の庵野秀明氏は、「特撮博物館」の館長であり、実は年齢的には私のひとつ下(1960年生まれ)なのだ。本当、草加に常設「特撮博物館」持ってこれたらいいのになあ。

「安堂ロイド」を面白がれるのは誰か

 昨日アップするはずが、アタマぐるぐるでまとまらず持ち越し。

 今でもまとまってないんだけれど、今期のドラマが次々最終回になっているのでちょっとだけ感想。

 「安堂ロイド」がかなり遊び入っていることは、スタッフ見てもわかる(詳しくはリンク先Wikipediaを参照)。

 最終回の小田和正にはびっくりしたけれど、ここを「ださい」とか言うのは野暮というもんでしょう。竹内まりやの曲使ってるだけでも充分「わかっててやってる」んだし、キムタク起用も全部含めて壮大な実験(^_^;)だったんだよね。

 ゴールデンタイムのドラマでアニメチックな実写SFがどれくらい受け入れられるかってことの。

 そのままアニメになりそうな設定、最終回を迎えても穴がボロボロ。ただ、一応ドラマ的には完結しているので(いや、最後あれはターミネーター的な展開なのか?ん?)説明不足はBlu-ray/DVDボックスのディレクターズカット版とかで補う予定と。

 SF(系)アニメで、社会問題とか普通なら恥ずかしいような愛とか正義とかを真っ正面から語らせることはよくある。「安堂ロイド」も脚本はそんな傾向あった。第9回は少しうるうるしてしまった。

 SFもアニメもなじみの無い人にとっては「駄作」なのかな。キムタクとか関係無く。というか、キムタク出てなかったら、きっと視聴率は数%だったよね。

 BOX買う余裕無いので、かわりにノベライゼーション買うか。

2013年12月14日 (土)

流れ星と天の川

 昨日の夜、ふたご座流星群のピークだというので、ベランダでしばらく上を見上げていたら、ひとつだけ見ることができた。久し振りだ。


 子供のころ、父と星座の話をしていた記憶がある。肉眼でが見えればまだ視力はいいとか、北極星の探し方とか、そんな話。

 天の川を肉眼で初めて認識したのは、高校生のころ。部活のメンバーといっしょに高原のバンガローに泊まった時だったと思う。ずっと町に住んでいたからか、プラネタリウムか写真の中にしか存在しないと思っていた。その時初めて、目で見ることができるんだと感動した。

 
 「星明かり」を初体験したのは北海道の山の中の宿。町の光も何もない、山に囲まれた道。真ん中に寝転がり空を見上げる。すっと流れる「流れ星」。空が星でほんのり明るかった。まわりにある真っ黒な山々の影が強く印象に残った。

 四国の室戸岬だったと思う、日の出を見ようと早朝に宿を出て少しだけ明るくなり始めた空を見ていたら、一定の速度で動く光があった。人工衛星が見えていた。確かに空に人間が打ち上げた物体が地球を回っているんだと感心した。当時はインターネットなんて無かったから、それが具体的に何かはわからないままだけれど。

 私の世代は、映画版「宇宙兄弟」のオープニングに感動したと思う。

 小学生時代に人類が月へ行った。生中継のテレビ放映を、父は8ミリカメラで撮影していたっけ。1970年に開催された日本万国博覧会では月の石が展示された。

 スペースシャトルが宇宙時代の幕開けを謳っていたころは、21世紀には宇宙ステーションが地球をめぐり、だれもが宇宙に行けるようになると想像したりした。

 「機動戦士ガンダム」で登場する「スペースコロニー」は、かなり現実味があるような気がしたもんだけれど、科学技術の進歩は人の想像通りには行ってないな。

 そういえば先日ちらっと書いた「天文台があるペンション取材」は、仕事の依頼が中断し(たぶん編プロに依頼するだけの予算が無くなったんだと思う)、2回だけで途切れてしまった。2回目がちょうど「火星大接近」したときで、調べたら1988年だった。ずいぶん昔なんだわなあ。。

 今日はちょっと遠い目をしてみました。

2013年12月13日 (金)

クリスマスはアルバイト(^_^;)

 クリスマスシーズンになると、大学生時代のアルバイトを思い出す。「クリスマス」はデートの日ではなく、アルバイトの日だったからね。

 大学生の時は自宅通いだったし、親はアルバイトに対してそれほどいい顔をしなかったのもあって、アルバイトはお休みの時だけ。

 4年になって時間ができてから、本屋でのアルバイトを開始、それがおもしろくてそのまま就活せずに続けてしまい、いわゆる一般的な会社に就職しそこねてしまったが、まあそれはさておき。
 

 あとから振り返って、後々もっとも役に立ったと思うのが「おもちゃ屋さん」のアルバイト。

 これで、「包装」が得意になった。

 クリスマスシーズンのバカ忙しいときは、昼ご飯を食べるヒマもなく、ともかく包みまくってた。おもちゃって形も大きさもいろいろだけれど、当時の包装はすべて「包装紙」。今のように、おしゃれな袋に入れてリボンで止めるというような「ラッピング」の概念、無かったからね。これをえんえんと、黙々とやっていたわけで、うまくなるのも当たり前。

 この後、本屋さんで働き始めたときも、包装担当みたいにせっせと包んでた。大きさの違う絵本を複数包装するなんてのはけっこう難しいのだ。

 子供ができて、クリスマスにプレゼントを用意するときは、基本的に全部自分で包んでた。おもちゃ屋さんの包装紙だとわかっちゃうことがあるから、ラッピング用紙を別に購入して包み直すわけ。
 サンタはもしかしたら………と本人が疑い始めたころ、台所の隅に置きっぱなしの包装紙を発見されちゃったけど(^_^;) 

 と書いていたら、何かを包装したくなってきた。ぴっちり包めるのは気持ちいいんだよね。うん。

2013年12月12日 (木)

編プロ仕事のおかげで今がある

 編集プロダクションに入ったのが、20代後半。それまでは地元の小さな本屋さんでアルバイト(いずれ正式採用的な話があったし、何より本が好きで小さな本屋さんながらコミックと文庫注文からまかされていて面白くて長居)。

 入った編プロが、定期的刊行物を扱っているのではなく、さまざまな企画ごとに制作する形をとっていたので、仕事内容はかなり多種多様だった。

 子供向け教材の記事や、学習マンガのネーム(原作下書きのようなもの)も書いたし、AV(オーディオヴィジュアル:audio-visual)機器の紹介記事とか。一時は学習教材の付録冊子を2年制作してた。

 DTPの黎明期は、キヤノンのワープロの親分みたいなものでとある会社の社内報冊子みたいなものを版下まで作って納品。その後、Macintoshの導入でDTPによる入稿も増えた。弱小会社のため、進行管理(編集)だけではなくて、時間があったらライターやDTPオペレーターもやらされた。

 インターネットが登場してからは、Webサイトに掲載する原稿も書いていた。電子ガジェットの紹介とか、子供向け科学記事とか、HTMLのごく簡単なタグ説明記事とか。。

 出産で正社員をやめてからは、掲示板のシスオペとか管理とか。

 
 そういえば、子供向け科学記事で「首都圏ジェットコースターの紹介+重力を体験しよう」とかいう企画をたてて複数箇所の遊園地を回ったり、「天文台のあるペンションの紹介」で実際行って泊まったり、いやー美味しい仕事もたまーにあったなああ。

 しかし、仕事の形態的には、今の言い方をすれば「ブラック企業」。

 残業手当なんてもちろん無く、ボーナスも少なく、カタログ編集を担当したときには、1,2日おきにずっと泊まりで仕事してたり、締めきり前は1週間泊まりで3時間睡眠だったなんてこともあった。よく社長に叱られたし、クライアントに無理言われて泣いて仕事したこともあった。

 でも、充実していたと思う。仕事(「プロジェクト」)ごとに内容が変わり、いろいろな経験ができた。

 だから今、「草生人」というタウン誌を作ることができている。

 残念に思うのは、当時の体力とエネルギーがあれば、「草生人」ももうちょっと元気に発行できたんだけれどなってこと。個人的なイメージでは、毎月発行できると思ってたんだよね。

 経験が無くうまくいっていない「広告を取ること」も、明るさというか心のパワーがもっとあれば(ようするにもうちょっと押しを強くできれば)、今よりはマシにできたんじゃないかなあって思う。
 

 考えることと作業が多くてぐるぐるして、もう一人「自分」が欲しいと最近よく思うのだけれど、「もう一人、若い頃の自分が欲しい」という気もする。あ、編集経験とスキルが無いと役に立たないか。。

2013年12月11日 (水)

イベントを追いかけきれないorz。。

 「草生人」を制作するようになり、草加の情報を集め始めて一番驚いたことは、草加市で行われているイベント(催し物)の多さだ。
 大きなイベントだけではなく、公民館や文化センターで行われるイベント、スポーツイベント、大小の音楽関連イベント、なんだかんだと毎週のようにある。

 特に11月は、上旬に「ふささら祭り」、中旬に「国際ハープフェスティバル」、下旬に「街グルin草加」と大きなイベントが続いていた。
 12月に入っても、先週末はアコスホールで「レザーフェスタ」が、カーソンプラザで音楽イベント(「Music Rainbow」「SMAC」)が、市民体育館では「農業祭」があった。

 「タウン誌」なら、忙しい市民のかわりに各イベントに参加し、そのレポートを伝えるという役目があるはずだ。だから「イベントレポート」という記事を連載している。

 しかし、今のところ編集部は弱小チーム。影分身でもしない限り、イベント全部を追いかけることは不可能に近い。「しょうがないよねスタッフ少ないんだし」と思っていた。

 だが、今年初めに登場した草加市のインターネット放送局「草加元気放送局」のスタッフは、たくさんあるイベントを精力的に取材している。定時放送では草加市で活動しているありとあらゆる人が登場し、それらの動画がどんどん貯まっていっている。
 これを見れば、草加市でどんなイベントがあるのかがよくわかる。

 つまり、「草生人」でめざした「忙しい市民のかわりにイベントに参加して内容を伝える」という役目は、「元気放送局」の方がしっかり果たしているわけだ。

 うむ。

「草生人」では、これは、と思ったテーマを掘り下げる「特集」記事がメインだ。こちらで頑張るしかない。
 次号は音楽特集、今誠意制作中(原稿執筆中)。年内発行予定。

 よろしくお願いします。

※「草加元気放送局」については、草生人2013年秋号「そうかまちだより」に掲載。取材させていただいています。ちなみに、私自身が「元気放送局」に出演させていただいた回はこちら

「回転寿司」に1回しか行ったことがないのは異常?

 先日朝のTV番組で、「回転寿司」のことを取り上げていた。ふと思った。家族で「回転寿司」に行ったことが、記憶が正しければ、「1回」しかない。

 ごく普通の5人家族でこれはかなりめずらしいのでは………。

 なぜそうなんだろうか、と考えたんだが、いくつか理由を思いついた。

 1、クルマを持っていない。
 これも5人家族ではめずらしいかもしれないけどそれはさておき。「回転寿司屋さん」はある程度広いスペースが必要なんだと思う。スペースを取るので、駅前にはあまり見かけないと思う。だいたいバイパス沿いとか、そういうところに多い。必然的に、クルマを持っていないと行きにくい。

 2,寿司が「実家で出されるお客様食」という意識になっている(価格も高いし)。
 ふだんの夕食っぽくないってこと。お互いの実家へは年に3回、お正月とGWとお盆に行くことになっているのだが、その時の夕食はほぼ必ず「寿司」だ。ご近所のお寿司やさんからの出前とか、宅配の寿司とかいろいろだけれど、なぜか「実家で寿司を食べる」のが習慣になっている(ただ、現在私自身の実家は「老人ホーム」になっていて、寿司食の機会はなくなったけれど………)。

 3、嫌いなものが多い。
 この理由がたぶん一番大きい。私は「貝類」「いくら」「うに」「たこ」が好きじゃない。また、生臭い魚類も割と苦手だ。また、子どもたちも(小さい頃から食べ慣れていなかったかもしれないけど)私と似たようなものが嫌いだ。一人はこれに加え、「いか」「えび」も食べられない。つまり、選択肢が少ない(ような気がする)ので、なんとなく敬遠してしまい、今に至る。

 今どきの回転寿司は、メニューが一昔前よりかなり豊富になっていて、「選択肢が少ない」なんてことはないと思うが、(1)の理由もあってなかなか行けない。
 あ、草加駅周辺なら「銚子丸」があったか。ただ、回転寿司でも寿司は寿司だから、ファミレスよりは高く付くだろう。敢えて行く必要もない(^_^;)


 「回転寿司」のWikipediaをちょっと調べてみたら、「1970年に開催された日本万国博覧会に元禄寿司が出展し表彰されると一気に知名度が高まり………」という記述があった。

 え、それって私が子供の頃じゃん。

 「コンベヤ附調理食台」の権利が切れて一気に広まった年が1978年とある。。それでも今から30年以上前だ。もっと最近のことかと思っていたのだが、家を出る前も世間にはそれなりに「回転寿司」というものが存在したのか。
 もちろん行った(連れて行ってもらった)ことはない。

 もしかしたらここに理由があったかも(^_^;)

2013年12月 9日 (月)

「だるい」と「なまける」は「怠い」と「怠ける」

今朝調子が悪くて午後3時頃まで仕事できずに横になっていた。

明かに熱があるとか咳しているとかではない限り、この「体調が悪い」ことと「やる気が無い」というのとは、表裏一体の場合が多いのかもしれない。
怠くて体が沈むような、胃の奥から何かが這い上がってくるような感覚があるのだが、当然ながらそんな時に「やる気」が出るわけが無い。

が、もしかしたらやる気がないからそのような漫然とした体調の悪さが出てくるのかもしれないと疑心暗鬼になる。

「怠(だる)い」と「怠(なま)ける」は同じ文字だし。

私の場合、この不定愁訴的な症状が出始めたのは、いわゆる更年期障害だろうなあと予測がつく年頃からだった。なのでやっぱり更年期障害なんだろう。
ただ、現状ではストレスから来るものである可能性も否定できない。
まさにストレスなんだろう。うん。


横になっているときに頭に鮮明に出てきた現状のイメージ。

崖にゆっくり向かっている動く歩道の上を逆方向にさらにゆっくり歩いている。
走れば戻れる。しかしじっとしていればいずれ落ちる。今は歩道より速く歩くことができていないので、このままの速度で歩いていてもいずれは落ちる。
歩道には高い柵があって、乗り越えるにも気力と体力がいる。歩きながらでは難しい。走って時間の余裕を作ってからなら、よいしょと乗り越えることはできるかもしれない。
だれかが動く歩道の動力を切ってくれればいいけれど、今のところそんな奇跡は起こりそうに無い。

という感じで、眠ったときには、電車に乗り遅れたとか、入るべき部屋が見つからないとか、そんな夢ばかり見ていた。

実際、体調がいいときは「よしやるぞ、今日はこれとこれとこれを片付けるっ」とか思って元気なんだけれど、ちょっと疲れてくるとすぐに「ダメだもう」的な感じになる。

体調と心直結しすぎだろ(^_^;)

さて、「気を取り直して頑張る」ことをしなければならないが、あと何回この「気を取り直し」が残っているのか、時々不安になるのだった。

さあ頑張るか。
………ってもう夕飯の時間だったorz。

2013年12月 8日 (日)

地元育ちの友人知人がいないと当然ながら地元のことがわからない

草加市のタウン誌を編集制作しているのなら、今現在開催されている(いやもうほとんど終わってるかな?)「農業祭」には行くべきだろう。
でも今日はごめんなさい。ブログ書いてます。
去年、草加市公式ページや駅や商業施設などで見かけるポスターの情報を見て、これは取材に行こうと、販売開始の設定時間である10時に市民体育館に到着。
しかしそこにあったのは、何もまっさらな白いテーブルが並ぶ体育館と、野菜を確保してレジにならぶ長〜〜い列だった。
何が起こったのかとその場にいた職員に尋ねたら、事前に整理券を配付していること、開会と同時に欲しい野菜は確保され、販売直後からレジに行列ができると話してくれた。

知らなかった。

事前の調査が足りなかったということなんだけど、実は知っている人はみんな知っていた。品物が限られているのであえて大々的に宣伝していない、いわば口コミで広まっていて、それで特に問題ナシ、というイベントだった。

当然だが、「口コミ」による情報は、そのことを知っている友人知人がいなければ知ることができない。


去年は、草加市でこんなことやってたのか、という驚きの連続だった。

「農業祭」もその1つ。「広報そうか」にちゃんと目を通し、市内のスーパーや公共施設に貼ってあるポスターに気をつけていればきっと気がついたんだろうな、とか思っていた。
しかし去年「農業祭」で出会った知人との会話で「知らなかったの?」というセリフが出てきて、それは違う、と気がついた。

「農業祭」は今年45回を迎える歴史あるもので、いい野菜が安く買えるので知る人ぞ知るイベント。知り合いに地元民がいれば、「野菜安く買えるのよ、早く行かなくちゃ売り切れるのよ」と「口コミ」で知ることができただろう。

なぜ草加市のイベントをこんなにも知らなかったのか。
それは私が市内に友人知人が少ないと言うことを、計らずも証明してしまったのであった。

ふつうは、市内で子育てをしていれば、「ママ友」が自然とできる。「子供の友達の親同士」の関係から、本人同士が「友人」になって、一緒に買い物したり飲んだりという関係になることも多いだろう。
しかし、私の場合、時間的余裕がなく(東京に働きにいくと、朝子供を送り出して夜は夕飯作ってばたばたしておしまいとホントに時間が無い)、「つるむ」のが苦手でもあったので、「ママ友でランチ」みたいな集まりはほとんど参加していなかった。
そういうわけで、口コミ情報がほとんど入ってこなかったし、多少仲良くなっても、つきあいが悪いので誘われていなかった(んだろう)。

もちろん、生まれが草加市ではないので、古くからの知り合いが居なかったというのも大きな原因ではあるけれど、それでもちょっと一抹の淋しさがよぎるのであった(^_^;)

ちょっとスイッチが切れた

月3回出しているメルマガのトップは、「編集長コラム」。
日々思っていること、考えていること、気がついたことなど、草加とは直接関係ないことも多い。
なかなかまとまらず、昨日1日遅れで配信。

このメルマガのコラムとブログは、スタイルがほぼ同じ。

実は「ブログもっと更新しよう!」と「改」とか付けて再開したのに更新が滞っていたのは、つい「これメルマガネタに取っておこう」とか姑息なことを考えていたからだ。

その、姑息なことをやめて、とりあえず「思っていること、考えていること、気がついたこと」をどんどん書こうとしているわけだが、今日は文章が全然まとまらない。

今の仕事は……タウン誌制作の仕事は、企画・編集・原稿執筆・データ作成、と、ともかく考えて作業しないと進まないことが多い。

一方、家事もそう(いうものが多い)。たとえば夕ご飯作り、完全な手抜きだとしても、おかずを買うかお弁当を買うかどこで買うか、などなどある程度は考える必要がある。

昨日のブログにも書いたように、性格的に「心配事」も多い。つまり、いつも何かを考えている。

だから、ときどき「考える回路」のスイッチが切れたみたいになることがある。

まあ、要するに「現実逃避」だけど。

今日はレザーフェスタ、アコスギャラリーの書道展(以前取材させていただいた山﨑秀鷗先生の書道教室の書道展)、新田わいわいロード商店街「百縁商店街」をたずねた。
帰宅して夕食作った後、スマホに入っているソリティアをやって、ドラマをぼけーっと見て、気がついたらこんな時間に………。

NHKの「ハードナッツ」、おもしろい。録画を消化中。スイッチ切れたときにはなかなか最適。

明日は頑張らなくちゃ。お休みなさい。

2013年12月 7日 (土)

新田ふれあいロード商店街の百縁商店街

タイトルとおりのイベントが今日開催されるのだけれど、ネット上に情報が見つからなかったので、ここでお知らせ。

Fureai100en
午後に行く予定。
レザーフェスタもちょっとのぞく予定。
音楽イベントはちらっと見る予定。
原稿書かなくちゃヤバイのだけれど、イベントは待ってくれないから困る。
うーん、画像をピックアップするサービスを何か使わないと。。
たくさんあるネットサービス、選んで試して活用する、という時間がなくて、まあもったいない。

心配事の1割も起こるなんて!

「心配事の9割は起こらない」という本のタイトルを見かけた。


とりあえず、以下に書いていることは、このタイトルだけを見て思ったことで、内容は関係が無いので念のため。

私は基本的に心配性だ。娘にも心配性と言われる。いろいろ考えすぎてる。

心配していることの99%が起こらないことはわかっている(つもりだ)が、可能性が0じゃないことは、気になる。もしかしたら心配していることの99.9%は起こっていないのかもしれない。

タイトルを見て、心配事のうち1割も起こっていたら、それこそ大変だと思ってしまった。
例えば娘が出かけるとき、交通事故に合わないか、不審者に遭遇しないか、地震でぼろい校舎が壊れて下敷きにならないか、などなど、たくさんの可能性を「心配」する。というか、想像する(妄想する?)。

これ1割も現実化して欲しくない。


ある意味「心配」というのは「リスク管理」なんじゃないかと思う。
あることがこうなってこうなってああなったらこうなる、かもしれないから対策を立てておこう、というか。

「こんなこともあろうかと」@真田志郎(宇宙戦艦ヤマト)

そしてそれは想像力(妄想力)。


内容紹介をちょっと読んだ。
「人と比べない……“妄想”の9割はこれで消える」とか「余計なことを調べない……情報の“暴飲暴食”はやめる」というのは、もっともな意見としてわかるけれど、これ、読者は「はいそうですね(^_^)」、と納得して実行できるもんなのだろか。
書評を読んだら、多くの人は納得していた。
うむ。

ちなみに「人と比べる」ことと「妄想」、「余計なことを調べる」ことと「情報の暴飲暴食」は何かズレを感じるのは私だけかな。

「妄想」は頭の中で普通ならあり得ないことをずんずん想像してしまうことで人と比べることとは直接関係無いような気がするし、基本好奇心が強いので調べることに「余計なこと」は無いような気がするし。

うーん。中身を読んでみた方がもしかしたらいいのかもしれん。
私の心の中は雑念でいっぱいだ(^_^;)。

明日はレザーフェスタに行こうかな。

2013年12月 5日 (木)

ネットの危険は「親」の方が勉強が必要、かも

10年くらい前、子供向け掲示板管理のお仕事をしていたとき、個人情報が書かれた発言を注意して削除するというのもけっこう重要な作業だった。

その掲示板は会員制の上(IDとパスワードが必要)で、パソコン用だったのもあって、利用する子供はある程度限られてたから、大丈夫だって思っちゃってたかもしれないけど、それでも電話番号とか特定の学校名とかふつーに書いちゃうのはね………。

インターネットの掲示板に書くっていうことは、大きな駅の伝言板に住所氏名電話番号を書くのと同じだから、やめようね、と注意してた。


今、ネットがふつーになった分、危険はもっともっと増えてる。
今朝フジテレビのワイドショー番組「NONSTOP」でそのことをやっていて、改めてうーむと思った。(時間切れで最後までやってなかったのが気になった。最後の項目が「詐欺アプリ」だったみたいだから………)※1。

最初の話題は、スマホの写真には位置情報が含まれるから、GPSを切っておこう、という話。それをしちゃうとけっこう不便なので、「スマホで写真撮影してそれを公開する」時に充分注意するってのが現実的かなとも思うけれど、意図しないウイルスアプリが勝手に情報使うっていうリスクもあるからなあ。
子供には、個人情報だけじゃなく、「今日花火に来てる」「レイクタウン行ったらアイドル来てた」とか、そんなことをつぶやいているだけでも、それらを全部確認することで、行動が分析できちゃうので、なるべくやめようね、という話はしてる。

今学校でも、スマホ持っている生徒がものすごく増えているので、毎年集会や講演会が開かれている。
親も参加どうぞというお手紙くるが、平日じゃ無理だわな………。

と、ふと、実はネット世代の子供よりも、親の方が危ないんじゃないかな、と思った。インターネットがごく普通になって10年以上たっているから、学校で情報教育を受けていない世代が親になってるころだ。

テレビ番組で取り上げても、見ない人も多いだろう。まあ取り上げ方が大げさだったりズレていたりすることもあるけど、認識するだけで全然違う。

この手の「ワイドショー」をバカにしている人も多いけど、ブログの伝聞情報よりは信用できると思うんだが。

しかし、facebookってのはもとから個人情報をバンバン載せていて、それが「facebook」なんだけど、この手の「SNS」、一方では個人情報ダメ、一方は個人情報バリバリOKとかなると、使う方としてはその都度認識を変える必要があって、難しいめんどくさい。

個人的には、インターネットとか掲示板とか利用していたら、よほど気をつけていても、どこからか絶対に漏れるというかわかってしまうと思っているので、それほど神経質にはなっていない。ただ、感覚的に「気持ち悪いな」と思ったことは避けるようにしている。
少なくともfacebookの、年齢ピンポイントの広告は気持ち悪いわ(-_-)


※1詐欺アプリ怖い
「詐欺Androidアプリを自動生成できる統合環境が無料入手可能に」、トレンドマイクロ

2013年12月 4日 (水)

幼なじみは大人になってからでは作れない

私は幼児のころ、幼稚園、小学校、中学校と学生時代に4回引っ越している。

中学校時代の引っ越しは祖母といっしょで、その時点で「田舎」は無くなった。
手紙をやりとりしてた友達も次第に疎遠になった。

中学校時代からの「実家」も、私が家を出た後、両親が仕事の都合で引っ越したため、すでに無い。

何を言いたいかというと小中高校時代ずっといっしょだった友人知人がいない=「幼なじみ」がいないってこと。
そして小中高時代の友人は私を探す手段が無く、クラス会には絶対呼ばれないってこと。

特に大人になるまでそれが淋しいとか思ってなかったんだけど、旦那が中学校の同窓会に行ったり、PTAに参加すると出身学校が同じ人がけっこういたり、そんなこんなでちょっと羨ましいというか、淋しいような気持ちを抱いてしまったのだ。

子供の頃の自分を知っている人、っていうのは、やっぱり何かちょっと特別なポジションという気がする。
自分の原点を知っている人、かな。

だから娘ができてからは、引っ越しはしてるけど転校しない範囲での引っ越し。
みんなもう「幼なじみ」がいるはず。ちょっと羨ましいな。

2013年12月 3日 (火)

こりゃ売れないよねえorz

Puboo(パブー)で草加関連電子書籍(主にメールマガジンのまとめ版)を売っているんだけれど、まったく売れていない。1冊も、だ。

売れました数字はスタッフがテスト用に購入したヤツ。売れたというメールが初めて届いて空喜びしちゃったじゃないかorz。

まあそんなもんだろうなあ。

amazonでさえアレだから(「じつにサプリ」)。

宣伝は、編集部のツイッターとか「草生人」本誌でやっているが、自分ところで宣伝しても効果が無いのは当然だ。


やっぱりkoboとiBooksにも出して、がんがん宣伝しなくちゃだめだろう。
その手間暇経費をどうするんだっていう話なんだけどね。
地道にやっていく予定だけど、それでやっていけるかが超大きな問題だな。
ふむ。

草加市は老人ホームが多い、かもしれない

ここ何年かで急激にできている気がする。

草加市の「老人ホーム」。

実親がふたりとも老人ホームに入っている。
基本的に近くに住んで世話をしている妹が手続き等全部やってくれた。ありがとうございます。足を向けて寝られませんm(__)m

さて、両親が老老介護状態になって老人ホームの話が出たとき、私の住んでいる地元でもどうかというので少し調べた。何年前だろう。4,5年前か。
そのときはそれほど多くなかった。
とりあえずご近所、草加駅から近い「ボンセジュール」に話を聞きに行った。
「駅に近くて人気があります」と話していた。

後から、これがかなり重要だってことがわかった。

両親が今居る老人ホームは、閑静な住宅地の丘の上にある。窓からの眺めもいい。「隠居した人が住む」にはけっこういい感じだ。
駅まで歩いて20分かかるとか、近所にスーパーなど買い物できるところが無いとか、もともと活動をそんなにしていないから大きな問題にはしていなかった(んだと思う)。
しかし、後から「丘の上」というのが大問題だってことがわかった。

老人ホームに入る前は、それなりに街中のマンションに住んでいたので、動けない母は別として、父はご近所のコンビニにタバコ買いに行ったり銀行でお金下ろしたりしていた。
これが一切できなくなった。つまりまったく外出しなくなった。「丘の上」は、帰りがきついのだ。

だから、ホームに入ってからほとんどずーーーっと丘の上の建物の中で過ごしている。趣味という趣味を持たなかった父はいったい何して過ごしてるんだろうか。。

草加市は平らだ。自転車記事の取材でもその話が出た。
商店街も点在しているから、たぶんいい天気の日にぶらぶら散歩して買い物して、ということが割としやすい町なんじゃないかな。

東京に近いということは、遠くに住んでいる家族も訪ねやすいだろう。

草加市で、数年前からどれくらい老人ホーム増えたか検索すれば調べられるかなと思ってGoogleしたら、こういうページを見つけた。


「保険のなんとか」と同じようになっていた。。。

確かに私自身も調べたとき、さまざまなタイプのところがあって、選ぶポイントもかなりいろいろでよくわからない部分も多かった。そのとき出した結論は、見に行ってみた方がいい、だったけど(建物の立地、中の雰囲気とかは実際行ってみて肌で感じないとわからん部分があるので)。

ということで、草加にいくつあるかわからないけれど、かなり増えたことは確か。
高齢化社会をまた肌で感じたわけだった。

2013年12月 2日 (月)

「草加市」は東京に近い

草加について思うこといろいろ。

最近では「松原遊歩道」が国の名勝に指定されるという快挙があって、「草加煎餅」以外の有名どころが増えていいことだ。

草加市のタウン誌作ろうと思ってから2年が過ぎた。

草加市でがんばっている人とお話しする機会が増えて、町づくり、町おこしのために大勢の人が頑張っていることがわかった。
ただ、「2011年以降、草加市を活性化しようという動きが活発化している」と思うのは、実際にそうなのか(「草生人」創刊も含めて)、私自身が「知る」ことで印象が変わったのか、そこはよくわからない。

町おこしっていうのは何だろう。
町を活性化するってのは、「イベントに大勢人が来る」、というのではなくて、日常的に人が訪れる、もしくは多くの人が住む、ということだろう。

そのために何が必要なんだろう。

草加市の一番大きな特長は東京に近いことだと思う。
だから埼玉都民というか、草加都民が多い(東京に働きに行って週末は遠出、地元にほとんど居ない(^_^;))。
人口はそれなりに多いから、大きなイベントに人は来るけど、大きなイベントにしか来ない。
レイクタウンみたいなショッピングセンターを作るには東京に近すぎる。
ちょっと大きな買い物をするときは、数も種類も圧倒的に多い東京に行った方がいいし、ショッピングセンター的な多種多様な店がコンパクトにまとまっているところに行きたいなら隣にレイクタウンがある。

最近、「東京に近い」ことをもっと何か利用できないかなってよく考える。
具体的にイメージ描くとどうしても「(東京からでも人が訪れる特徴的な)美術館作る」というのになっちゃうんだけど。

あ、そういえば松原遊歩道を守った人々を描くドラマとかできないのかな。あれなかなかネタとしてはいいと思うんだけどな。だれかがそれをネタに小説書けば、それをドラマにするという………。。

今一番効率がいい手段は、「アニメの聖地」化?

去年開催された「コスプレフェスタ」はぜひ続けて欲しかったのだけれど、今年は結局開催されなかった。最後のアニソンの盛り上がりはなかなかだったんだけど、1回ぽっきりじゃ次回やったとしても人集まらないだろう。

草加を舞台にしたコンテンツ、そのことを考えている人いないのかな。草加に(草加にかかわる人の中に)(^_^;)
もしいたらぜひお話聞かせて下さい。

2013年12月 1日 (日)

そういえば2周年だった

朝なんだかやけに長文をアップしたために、こちらの話題に触れるのを忘れていた。一応登記が2011年の12月1日なので、今日でちょうど2周年。よく保った。


自分自身にご苦労さんと言っておこう。

とりあえず今が正念場であることは間違いが無いので、ともかく頑張るしか無い。

でも29日から公開されているSPECとかかぐや姫を観たいとか煩悩に負ける。
それにPTAの作業もある。

そういえば早く構想3年の(^_^;)「PTA広報誌の作り方ガイドブック《私家版》」原稿書かなくちゃ。以前作ろうとしていた引継ぎ用メモを見ていてふとこれちゃんとしたら(電子書籍化したら)それなりに需要あるんじゃね?と思ったわけなんだが、娘卒業する前に書かなくちゃ意味がない。

さて夕飯の用意の時間だ。今日は何にするかなあ。。

昭和30年代生まれのおばさんが見てきたインターネットの世界

いや、たいしたことを書くつもりじゃないんだけど、この「昭和生まれのオッサンが見てきたインターネットの世界」が、私とかなり違うので、「昭和生まれ」ではくくらないで、70年生まれでくくるとかして欲しいと思ったりしたのでちょっと書いている。

私の生まれたのは1959年

リンク先のWikipedia見るとわかるけど、教育テレビが放送開始とか南極のタロジロ生存確認とか皇太子ご成婚とか少年マガジンとサンデーが創刊されたとか伊勢湾台風とか(中部地方に住んでおり自宅が床下浸水したらしい)なかなか賑やかな年だ。ってこれは関係無いな。

大学時代にはまだワープロも普及していない(最初のワープロが1978年で何百万するヤツだった:Wikipedia:ワープロ)。

1980年代に編集プロダクションに入社してから(大学卒業してからしばらくは書店勤務)ワープロを使うようになった。

その後徐々にパソコンでの作業が増えた。

会社ではパソコンを使った社内向けCAIシステム(教育システム)も手がけていたから、NECの9801とかあった。5インチのフロッピーディスクなんて化石だな。

当時はMS-DOSの時代で、ネットといえば「パソコン通信」の時代。Wtermでごく簡単なスクリプト書いて自動巡回設定してたっけ。まあ古い。パソコン通信は、使い方的にはテキスト版mixiと表現してもいいのかな、会社別の、閉じたネットワークの中での通信サービス。

青い鳥文庫でパソコン通信を使った人気小説があったけどどうなったのかと思っていたら(パスワードシリーズ)、時代に合わせた形に直したものが順次刊行されてる。うちこれ全巻あって、娘が楽しみに読んでたんだけど、すでに第1巻のころには「パソコン通信」衰退期だった、気がする。

しかしパソコン通信なんていう言葉を知っている人も少なくなっちゃったんだろうなあ。当時のNiftyのIDを持っている人がたまにいて、うれしくなったりする。

1990年代の始め頃、仕事でもDTPの仕事を扱い始め、Macintosh+QuarkXPress3.3 を使い始める。そのときMacintoshというパソコンがとても気に入って、結婚祝いにMacintoshIIciを買ってもらった。当時はかなり高かったんだよね。結婚式とか新婚旅行とかが全部化けたようなもんかな?(私は女性だけどそういうものにあまり興味が無かった(^_^;))。

その後出産のため退社、自宅でもできる仕事ということで、「パソコン通信」の管理業務をしてた。

「インターネット」が登場したときには、すぐに飛びついた。まだプロバイダ(インターネット接続サービス)が4社くらいしかなかった時代。使っていたのは「Rimnet」。

インターネット+Netscape Navigatorで見るさまざまなWebページはけっこう感動した。一番実感したのが、Macintoshの新製品発表の速報を、米Appleのサイトで直接確認できたとき。

今ごくごくふつうに世界中の様子がリアルタイムにわかるしやりとりできるけど、当時はびっくりだったんだよなあ。不思議。

そしてだんだんインターネットに接続することが普通になってくる。

でもまだADSLではなく常時接続でもなく細々と繋がっている感じ。

実は自宅で基本仕事をすることになって、会社で半分接続費用をもってもらって、当時としてはめずらしく個人で常時接続の環境を整えてもらっていた。ルータを利用して複数あったパソコンを繋いでいたから家じゅうケーブルがくねくね。ただ、セキュリティを最初気にしてなくて、事情知ってあわててその手のセキュリティツール入れて確認したら、ものすごい勢いでアクセスされてて焦った。Macintoshだったし、ルータ経由してたこととかで特に問題は無かったと思うんだけど、もしかしたら何かあったかも。まあ時効。

携帯電話(DDIポケットのPHS)をGETしたのもその頃か。

Newtonも一時はまった。日本語環境が無い時期に買ってしまったのでかなり苦労した。元祖「PDA」で、今思うと時代的に10年以上早かったかもと思う。PDAといえば、Newtonの次に購入したのがPalmOS搭載のVisor 。そしてソニーのCLIE

その後スマホの走り的な「W-ZERO3[es]」も使っていたけど、小さなパソコン以外の何物でも無く、いまひとつだった。

パソコン通信の後は、JustNetが運営する掲示板に参加してた。

「ホームページ作成質問箱」というフォーラムのシスオペやっていて、かなり盛況だったんだけど、フォーラムが中止になっておしまいに。

2000年前後はこの手のインターネット上のパソコン通信的コミュニティにいくつか参加していたけれど、それほど盛り上がってなかった記憶がある。

mixiに入ったのは2005年ごろだと思うけれど、足跡機能とか、どうも密なコミュニケーションが苦手なのでだんだん疎遠になる。

で、個人的にはiPhoneの登場が一番インパクトが強かった。softbankじゃなかったので「必ず通信機能をはずしたものが出る」と信じて待って、初代iPodtouchをすぐさまGET。これこそPDA!と感動。

iPodtouchは今でも現役。娘がiPodとして使っている(バリバリ使っていた「iPodnano」をなくしてしまい、そのかわり)。

今ざっと読み返して見て改めて思ったけど、「ゲーム」という要素が無いね。

地味だ。

なぜか「ゲーム」は好きになれなかった。パソコン用のインタラクティブ系ゲームもほぼやってないし、一時期はまっていたのは「上海」くらい。

なので、テレビゲーム機は買わなかった。子供のいる家庭でテレビゲームが無いのは意外とめずらしかったみたい。そのかわり、携帯ゲーム機は買ってたんだけど、ね。

だんだんめんどくさくなってきた(^_^;)長文だな。

ちなみに、タウン誌を作ろうと始めた会社ではあったけど、実際には将来的に電子書籍をちまちま出せる小さな出版社としてやっていこうと考えていたから、最初は「投資」と称して調査目的で当時の電子書籍端末を一通り揃えていた。

いやー贅沢な話だな~(遠い目)。。

SONYタブレット、kobo、もちろんKindle、KindelFireとかありますとも。全部ほぼ初代機だけど。

しかしタウン誌出すだけで精一杯で、「電子書籍」を出版することがなかなかできなかった。

いや、一応ちまちま出してるんだけれど、本当に売れない。宣伝してないから売れないのは当たり前か。

もともと「何かを仕入れて売る」商売ではなく、「コンテンツを作って売る」方向を目指してしまったので、これがあまりに甘かったということだろう。

とりあえず以下にいろいろリンク。

万一ここまで読んでくれた人がいたらありがとう。

草生人

amazon KDP 「じつにサプリ」「じつにサプリ2

パブー ASYMOS  

※さらに改めて読んだら、「インターネットの世界じゃないじゃん?」って思った。うーん。パソコン黎明期から使っているとこうなるわなあ。

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